Midjourney 、シンボル・記号・物語の次の夜明け

文学

Midjourney というプロジェクトに注目が集まっている。

https://www.midjourney.com/home/

詳細は省くが、要するにこういうものである。

flower watercolor painting (花 水彩画)という入力に対し、AIが数分でこのような絵を出力する。

usagiga_flower_watercolor_painting_8f89e182-64a0-4b67-bc59-64f1dab5ed52.png (445.2 kB)

「なんの花?」「これは葉?」「この線なに?」といった違和感は残るものの、たしかにこれは水彩画の花だ!

この驚くべき Midjourney に対してはさまざまな場所であらゆる議論が行われているが、ここでは記号論・物語論に絡めた話をしようと思う。

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コンテンツとその消費の関係にはある種の流行、潮流と呼ぶべきものがある。

ガンダムを通過し、エヴァンゲリオンを通過し、ポストモダンを生きる我々は、記号消費的であるといわれる。

大塚英志はその著書「物語消費論」の中で、近代のサブカルチャーの消費構造として、世界観や設定といった「大きな物語」を販売するために、その断片である「小さな物語」を販売し、消費者はそれを消費するといった構図を指摘する。これが「物語消費」である。ひとは世界観や設定をこそ買いたいと思っているというのだ。

モノからコトへの変遷、というと耳慣れている方もいるだろうか。

たとえば、任天堂のゲーム機 Nintendo Switch の広告にはもっぱら新垣結衣が抜擢されている。あつ森をふとんにくるまって遊ぶ姿、リングフィットアドベンチャーでフィットネスに励む姿、 Switch Sports で男の子と真剣に対戦する姿、そういった写真や動画を見たことがある方もいるのではないだろうか。ここで着目すべきなのは、コントローラーを持つガッキーが写真や動画のほとんどを構成していて、ゲームそのものは描写されないことすらあるという事実である。

Nintendo Switch 2020冬 TVCM - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sjOEcyYeSA4

だが、消費者はこれを見て Nintendo Switch やゲームソフトを購入するのである。考えてみると不思議ではないだろうか。そこにはほとんど、そのゲーム機がどういったものなのかという説明は存在しない。そこにあるのは、ガッキーの爽やかなイメージだけなのだ。突き詰めて言えば、ぼくたち消費者は「ガッキーみたいな生活を手に入れたいな」と思って Switch を手にしているのである。

こうした、そのものが持つ機能(モノ)ではなく、キャストや見た目のイメージ(コト)を多く描写して売れたもの・施設は近年増加の一途をたどっている。 KONISHIKI を抜擢した後のサントリーオールド、INFOBAR、大江戸温泉物語。いずれも、キャストや雰囲気といった、イメージをもとに消費する傾向にあるわけだ。

この何か(表現するもの, シニフィアン, Signifiant)が持つ何らかのイメージ(表現されているもの, シニフィエ, Signifié)という関係性にあるものを、ソシュールは記号(Sign)と呼んでいる。ここでも本式に、記号を消費しているね、などということにしよう。

こうしたヒット商品は、新垣結衣やKONISHIKが持つ雰囲気、丸みを帯びたケース、つやつやの宝石のようなボタン、和装、江戸を彷彿とさせる内装、要するに、ものが持つイメージ、記号を援用してマーケティングしている。その商品を買うことで記号で表現された新しい生活様式、物語が手に入るような、そんな気を起こさせるのだ。マーケティングにおける言語論的転回、電通や博報堂が記号論に注力しだしたあたりから、ものが持つ機能はアピールにとって重要ではなく、記号こそ重要であるのだと考え方はシフトしていった。こうしたパラダイムシフトはあちこちで起きていて、サブカルチャーの消費の場でも同様の出来事が起きている。

ぼくたちは綾波レイに対して、髪や顔の特徴から来歴を分析しない。人種的な判断をくださない。ただ、白髪の短髪のやせた林原めぐみの声の少女はこういうイメージだろうという判断を下す。サブカルチャーの断片を、キャラクターから読み取って鑑賞している。大塚が示した物語消費よりももっと先で、共同幻想的な世界観、東浩紀の示すデータベース消費の時代、とりもなおさず、記号消費の時代が到来している。

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イラストの消費のされ方にも近い構造が存在している。

たとえば、 Twitter のイラストなどがそうだ。そこに何がどのように描かれているかではなく、描かれているものを介したイメージのほうを尊んでいることはないだろうか。

Midjourney のような AI によるキーワードからのイラスト生成は、こうしたイラストが持つ「物語を伝える役割」「記号」の成分を浮き彫りにするものであるとぼくは考えている。

なにしろ、表現者は「こういうイメージ(先の例で言えば水彩画の花)」を Midjourney によって高速かつ上質に表現してもらい、出力結果を自分の好みに調整したうえで完成、「水彩画の花です!」と公表することになるのだ。そこでは絵を描く際には欠かせなかったはずの表現技法、細部のこだわりといった部分は表現する際に時間をかける必要がない。絵を作り上げる間には、ただ自分の思い浮かべたイメージに合致するか否かだけが高速に反復される。

つまり、言葉を媒介にして、イメージからイラストを生み出し、イラストからイメージを読み取るという行為が、量的に充実するということである。

イラストに対してイメージを込める、意識するという営みはいまよりもずっと自由に、各地で行われるようになるだろう。

そこでは、物語消費、データベース消費、記号消費的なものの見方が先鋭化するのではないかと思っている。というのも、 Midjourney におけるイラストを作る過程とは、イメージを想起し、出力されるイラストが持つそれぞれの要素や全体の雰囲気から、自分のイメージに合うものがどれだけ多いか、合わないものがどれだけ多いか、読み取れる物語はなにか、そうした分析行為を反復するわけであるから、とりもなおさずシニフィアンを観察してシニフィエを読み解く時間を反復するわけである。 Midjourney は絵を描く際の他の作業を削ぎ落とし、ある種純粋に記号に向き合う部分だけを抽出した表現のための道具であるといえよう。そうした道具を使い慣れた人が増えていくということ、そうして描かれた絵に触れることを通じて、人類が持っている文化レベル、とりわけ記号論の領域の文化レベルは向上するはずだ。

ぼくが分厚い本と格闘して苦心して学んだ記号論に対して、フィールドワークを通じてよりネイティブな世代がやってくるのは、時代の進歩を感じさせてくれる。それで、勝手にワクワクしている。

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これは表現のバリアフリー化といってもいいだろう。

時間を持たない、表現技術を持たない、絵具や筆を持たない人たちが、デジタルイラストを文字によって生成できる。それらよりは識字率や作文スキルのほうが支配的な現代においては、より多くの人が Midjourney を手にして表現の世界に出発できるといえる。表現するすべを持たなかった人たちが、イラストを介して表現に携わることができる。これをバリアフリーと呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。

この点に関してはワクワクが共有できないだろうか?どうだろう。

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そういうわけで、ぼくは Midjourney に対して、「おもしろいものを作ってくれたな」と思っている。

記号の夜明けはまたしても目の前に迫っている。

バルトもレヴィ=ストロースもカッシーラーもソシュールもパースもエーコもマリー=ロール ライアンも思い描かなかっただろう未来が迫っている。

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ことさら話題になっているのは、AIの台頭による職を失うであるとか打ちこわしであるとかの懸念である。ここでも一応触れておこう。

生成にかかる時間や、AI産イラストのレッドオーシャン化といった需要供給はいったんおいておき、質的なベクトルを考えてみよう。

AIが進歩している間はAI特有の不完全性、つまり「AI的なイラスト」というイメージが生まれる。

知能やパラメーターにメスを入れることで画力が向上していくさまは、反復練習やたゆまぬ観察によって人間の画力が向上していくのと本質的にはかわらない。

そうした点で、AI的なイラストであるにしろ、人が書いたものと見分けのつかないAI産のイラストにしろ、高い画力に伴う神話性は変わらないはずだ。むしろ、関数の上に構築されたニューラルネットに対する神話性によって、人間がむかしから持っていたニューラルネットの神話性を浮き彫りにし、むしろ価値を上げるくらいだと思う。

いずれ技術の進歩にともなって、人の手になるイラストと限りなく同質化していくことだろう。それでもやはり、工業製品と職人の手になる製品とが共存するように、そこにある価値は変わりつつも、淘汰されることはないはずだ。もし淘汰されることがあるとすれば、糸繰車は、機関車は、カメラは、人の手になる毛糸を、人力車を、写実的な絵画を、完全に淘汰していたはずである。完全に遜色なくなったとしても結局人間が消費する以上は、モノではなくコトでものを買うわけだからやはり現状と事情は変わらない。どだい、工業製品と異なって芸術である以上は事情はもっと複雑だろう。たとえばレアリスム宣言に伴う写実主義のようなある種反発的なアート、ルネッサンスのような懐古的なアート、デュシャンらの現代芸術のような貪欲なアートは、AI登場以前からあったわけである。それに、バリアフリー化した表現によって多くの人が表現すること・されることに対しての経験を積み、文化的に進んでいくことであろうから、そうした機微に関して価値を見出すことも難しくはないのだろうと思うのだ。人間はそんなに簡単にできてはいない。もちろん、消費の構造に分け入ってくるものがある以上、変化は免れないとは思うが、産業革命や芸術運動による変化と大差ないものだろうと思う。

そうした意味では、ぼくは消費に関してあまり心配をしていない。

ただ、知能やパラメーターにメスを入れることが画力を向上させることになる事実が、人間の頭脳が電気信号で動くことをあからさまにしていておもしろい、そのように思う。