チーズバタールを知っているだろうか。
横浜は元町を本拠地とするベーカリー、ポンパドウルの看板商品である。 ラグビーボールのようなシルエット、ふんだんに練りこまれた角切りのチーズが印象的なパンだ。
しかし、ポンパドウルだけのものではない。
宇宙一うまいチーズバタールが他に存在する。
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ぼくの母は専業主婦である一方、精神的な障害を抱えていた。
どういう経緯だったかは終ぞ立ち入ることができなかったから知らない。 思うに、生来のものもあったろうし、兄が重度の身体障害を抱えていたのも理由のひとつだろう。
ともかく、ぼくが生まれた時から、ひどい状態にあった。 病院には強い恨みがあるようで、行きたがらなかった。 友達はおろか、自身の兄とすら縁を切ってしまったし、姉、父、あるいはぼくでさえ、逃げてきてしまった。
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ぼくの父はチンピラ上がりの走り屋だった。 自慢の青いインプレッサに乗って、毎晩のように峠を攻めたそうだ。 特にどうということはない。 少しやんちゃなだけの、普通の人生だった。
だからこそ、母を理解することも、耐えることもできなかった。
恐怖の連続だったろう、不安の連続だったろう。
それでも母も兄も支えようとしていた。 実際、家にはたくさんの医療関係の本があったし、父は父なりに家族に優しくしていた。
立派に見えるだろう。実際立派だと思う。
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「耐えることもできなかった」。
それはこういうことである。 この生活の中で、徐々に心をすり減らした父は、酒と煙草、それから暴力に頼るようになったのだ。
それがどれほどのものであったか。
語るべきではないだろう。
少なくとも、いつ物が壊れてしまうか、いつ誰が大けがを負うか、いつ誰が家からいなくなるか、そうした心配――では済まなく、事実目の前に起こる――がぼくの幼少期にはつきまとっていた。
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さて、それと同時に、ぼくの父は料理人である。
ピザ屋、和食、高級フレンチ、いまは和食だったろうか。 そして、ぼくが幼いころは、ベーカリーで働いていた。
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母はおいしいものを食べるのが好きだった。
ポンパドウルのチーズバタールも好きだった。
だが、実家の近くにはポンパドウルの店舗がなかった。 というよりも、近くにあったべーカリーは、父が働くベーカリーただひとつだった。
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あるとき、父はパンを持って帰ってきた。
ラグビーボールのようなシルエット、角切りのチーズ。
「来月から店に並ぶんだ」
それはチーズバタールだった。
父は母の好きなパンを作ってみせ、上司に掛け合って商品化にこぎつけてみせたのだ。
こだわり抜いた何種類ものチーズ、計算され尽くした焼成時間、香ばしいカリカリのクラスト、美しいクープ、パンドミのようなふっくらしたクラム。本家本元の風合いを残しつつも、独創性にあふれたパンだった。
のちにこのチーズバタールは、ベーカリーの定番商品になり、全店舗で売られることになる。
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母の障害に関して、誰かと関わることは本人にとっても、ほかの人にとっても辛いものであった。
障害に向き合ってから二十数年を経て、距離を置くことこそが最適解だという結論に至った。 ぼくら家族は防波堤として最低限は支えるものの、それ以上は何もしない。 姉も父も、実家を出ていった。
「何があっても、あなたが望まなくとも、必ずそばにいる」
そう言って最後まで実家に残り続けたぼくも、23年連れ添ってきた母と兄を地元に残し、東京に出ていった。
母はぼくの人生をめちゃくちゃにはしたくなかったそうだ。 早くいい人を見つけて幸せになってくれ、好きなように、どこか遠くに行ってくれ。 そう言っていた。 だから出てきた。
いや、逃げたのかもしれなかった。
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母は長時間の外出が出来ない。兄の介護があるからだ。
だから、ぼくが帰るときはいつも何かをせがんでくる。
ケンタッキーのフライドチキン、好きなベーカリーのバゲット、そして、
父が手掛けたチーズバタールである。