部屋を変えたら仕事しづらいと思った話

どうでもいい話

いや、実際には単にめんどいだけかもしれん。

夏が来た

梅雨が明けて、裏山でセミがシネシネシネシネ呪詛をぶちまけてくるようになった。 ぼくは何はなくとも夏の気温と光量で死ぬのでダメ押しはやめて欲しい。

そう、夏と言えば死の危険がある。 死ぬのは嫌だし、生活の上で金を払うことは厭わないので、今夏は一生クーラーの下で生きる覚悟を固めた。

ぼくの作業部屋にはクーラーがない。 一方、姉の寝室にはクーラーがある。 室外機を置くスペース・日中の日照時間・家庭内政治などの勘案の結果だ。しかし背に腹は代えられない。光量がきつければ部屋の中でサングラスも厭わない。だいたい、姉は家を出て行って久しいのである。いもしない権力者からエアコンをせしめて何の問題があろう。 いきおい、ぼくは移住した。

作業がしづらい

気温の上では快適だった。

しかし作業がしづらい。

この寝室にはローテーブルさえない。というか、あるのはベッドと小さなテレビ、住人のいない水槽きりである。これらが6畳に収まっている。ゆったり空間と呼ぶか、伽藍堂と呼ぶか、専門家の意見が待たれる。

仕方なく中古屋で買ってきた小さな机と座布団を敷いて作業をしていたが、それでさえキーボードは机からはみ出し、足はしびれる。テレビの解像度は1377x768という狭小住宅ぶりだ。生きづらい。とはいえ、自分の部屋と同じ環境をセットアップするのは間借りとしてはまかり通らない感があり、ためらわれた。

しかし、そのタブー感はどこから来た? 作業のしづらさはどこから来た?

生活空間の「価値」

部屋に機能を全振りするならば、ぼくの作業部屋のように、デスクやディスプレイ、ネットワーク機器、サーバー、本棚、布団、何でもかんでも置いて、ワンストップにすればいい。よく言えばコックピット、悪く言えば独房スタイルである。では、この寝室はどうだろう。6畳にベッド、テレビ、水槽。この部屋は機能性を考えていない、部屋のスペースを無駄にした配置なのだろうか。

結果から言うとそうではない。 この部屋は、寝る・休むための物語がその全体を支配している。

人に「何かをしろ」と迫る家具が少ない。 一日一回の魚の餌やり以外は、ぼうっとテレビを見、寝るばかりだ。 エアコンもあるから、暑さ寒さで対策を迫られることもない。

この部屋のものを「使う」と、その結果「休む」ことにつながる。それ以外の結果をもたらすものはない。 魚を眺めることも、テレビを眺めることも、興奮するというよりはリラックスする、休むための行為と言えるだろう。 もっと言えば、何もないことそのもの、広々とした環境そのものも、緊張を和らげる落ち着く雰囲気があると思う。

つまり、この部屋は最小限の家具で、部屋の全スペースを活かし、休むことをデザインしていると考えることができそうだ。

何がタブーだったのか

そもそも、この部屋はどう使われていただろう。

姉は根っからのテレビっ子だった。この部屋にテレビがあるのも、普段は買い食いに消えていたバイト代を珍しく貯め、自腹を切ったからである。そこまでして手に入れたテレビだったが、昼間はリビングのテレビを見ていて、部屋のテレビが点くのは決まって夜だった。部屋の中も外も静かで、常夜灯の映画館じみた暗がりで、音量を絞ったテレビを見ていた。

つまり彼女は、休むためだけにこの部屋を使っていた。部屋は休みに適したデザインだが、実際にそのように使われていたのである。

それを補強するかのようなエピソードがある。 ある時、彼女は気に入っていた勉強机をどこかにやってしまった。落ち着いた塗りの、丁寧に角をとられ、どっしりとした、豪華ではないが上等なものだった。捨てたんだか譲ったんだかは忘れたがとにかく勿体ないと思ったことを覚えている。どうしてそんなことをしたのだろうと思ったものだが、ベッドとテレビと水槽だけになったのは、勉強机がなくなったのではなく、寝るための機能を拡充するためにそうしたのかもしれなかった。

こうなってくると部屋がこの状態であること自体、呪術的な性格を帯びてくる。だから、この部屋にパソコンを持ち込み、キーボードやマウスを置くための机を持ち込むことまではできても、他の作業環境を持ち込むことはできなかったのだ。自分にとってパソコンはないと落ち着かないものだったが、ネットワーク機器やデュアルディスプレイは仕事のための道具だ。そうしたものを置くことで、彼女がお気に入りの机よりも大事にしていたこの休むためのデザインを壊すことがためらわれたのだ。

この部屋で仕事をしようとすると気が滅入りやすいのだが、もしかしたら部屋の持つイメージとちぐはぐなことをしているからなのかもしれない。

最後に

家具がない状態を指してスペースが無駄とは言い切れないよね、という話だった。正直ケガレとか物語消費的な話なので、受け取る際もそのように受け取って欲しい(ておくれ)。

読んでの通り、本文ではエッセイ的・アレゴリー的に解決していて、学問的に補強しようという気がない。一応補足しておくと、この話はスピリチュアルに傾倒しきった話でもない。実際、「室内照明のパターンが空間評価に与える影響 (2015, 西本)」や「インテリアと『癒し』および『和み』の感覚との関係 (2006, 後藤)」といった癒すインテリアを学問的に突き詰めようとした人もいる。タイトルでせっかく興味が湧いたのにオメーロジックがこれで梯子を外されてしまった人は、こうしたものを漁ってみるのもいいだろう。

居住空間だけでなく、自炊のやってやった感とか、娯楽の豊かさとか、 忙しくないのであれば 、実務的ではない視点も持っていたいものだ。 ? 忙しかったような気がするのだが…